デンマーク人が幸せなのは、日本人と幸せの前提が違うから

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私がデンマークに来た理由はいろいろあるけど、「なぜデンマークが幸福な国だと言われるのか、実際にこの目で見て知りたい」ということも理由のひとつでした。

高い税率の代わりに教育費や医療費が無料だから?男女平等で女性が働きやすく、子育てもしやすいから?そういうことも一因だとは思います。

でも私がフォルケホイスコーレで生活していて気付いたのは、「デンマーク人はそもそも"幸せの前提"が私たちと違うのでは?」ということでした。

デンマークでは「HYUGGE(ヒュッゲ)」という言葉に象徴されるように、「誰かと何かを一緒にしたときに幸せが生まれる」という考え方が浸透しています。

それはフォルケホイスコーレで過ごしていても多々感じることで、ここでは授業以外の自由時間がたくさんあります。その時に何をしているかというと、みんなで集まっておしゃべりしたり、ボードゲームやトランプで盛り上がったり、映画を見たり。晴れた日には庭で日向ぼっこしながら、本を読んだり歌を歌ったり。Chill Baseballと呼ばれる、たいしてルールがないゆるい野球をしたり、サッカーをしたり。金曜日の夜にはDIYのパーティーをして、休日には学校の庭にあるサウナに入ったり、焚き火をしたり、散歩をしたり。誰かの誕生日が来たら、ケーキを焼いてみんなでお祝いしたり....そこには常に笑い声が響く。とにかく「みんなで一緒に何かをする」時間がほとんどで、個々に行動することがとても少ない。日本の学校で見られがちな、特定のグループで固まって行動したり、陰口があったりというような陰湿な雰囲気も一切ありません。

彼らの多くは20〜23歳くらいなので、ざっくり言うと日本の大学生と同じ年齢。日本の大学生と比べると、だいぶ素朴な過ごし方なのではないかと思います。それでも彼らはとても無邪気で満足そうにしているし、少なくとも私の目から見るととても幸せそうに見える。

もう一つ日本と大きく違うなと思うのは「まったくお金を遣っていないけど楽しそう」ということ。彼らは「楽しいことを(なるべくお金をかけずに)自作する能力が高い」のです。

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パーティーは自分たちで内容を企画して、DIYで会場を作り出す


つまり彼らは「みんなで遊びを作り出し」、「みんなでその遊びを思いっきり楽しんで満たされている」という感じ。

これはフォルケホイスコーレという、ある意味特別な場所だからかな?と思ったのですが、友達に聞いたところ大人になっても休日の過ごし方はそんなに大きくは変わらないそうです。

 

週末にお店が営業していないデンマーク

彼らはどうしてこんなに自分たちで遊びを作り出す力が高いんだろう?と思った時に、その理由は環境にあるのでは、と思いました。

私がデンマークに来て驚いたことは、小売店と呼ばれるようなお店がどこも早く閉まる上、週末は営業していないお店が多いということです。これは私が住んでいる小さな街はもちろん、デンマークで最大の都市・コペンハーゲンも同じです。デパートはさすがに土日も開いてますが、それ以外の路面店は土日両方お休みのところもあるし、土曜日だけはやっていても15-16時頃で閉まってしまうお店がほとんどです。コンビニはコペンハーゲン中心街にはいくつかあるものの、電車で数駅離れるともうありません。日本では当たり前のAmazonもありません。「欲しいものがいつでも買える」環境ではないのです。

ここでふと「デンマークのお店は週末に営業しなくて、経営は成り立つのか?」という素朴な疑問が頭に浮かびます。

これはあくまで私の予想ですが、まずデンマーク社会の価値観は明らかに「家族、友人、恋人と過ごす時間(プライベート)>>>>仕事」です。そして高税率なので、所得の約50%が税金に持っていかれます。万が一経営が回らなくなって失業したとしても、失業後4年間は元々あった所得の最大90%が支給されるという手厚い保障があります。

つまり、日本のようにガツガツしなくてもいい条件が揃っている。最低限の売り上げがあれば、そこから一番大切なプライベートの時間を削ってまで働くのはナンセンス、ということなんじゃないかと思います。

 

日本の「HYGGE」にあたるものは何なのか?

一方で日本では、小売店と呼ばれるようなお店はもちろん土日営業、20時くらいまで営業してるのがスタンダードでしょうか。定休日がないお店も多いし、コンビニは365日24時間営業。地方都市の小さな街でさえコンビニが何軒もある。欲しいものはAmazonで注文すれば翌日に届く。

利用する私たちからすると、もちろん便利。でも、長い間これが当たり前になりすぎて「幸せを得る、満足する」=「お金を遣う」という図式が無意識に出来上がってしまっていることに気付きました。

デンマークでは「HYGGE=誰かと何かを一緒にしたときに幸せが生まれる」という風に、「幸せ」が単語になるほどに定義され、幸せについての共通の認識を持っています。一方日本では「幸せ」はとても曖昧で、その答えはおそらく個人の価値観によってまったく違うでしょう。だからこそ、私たちは共通認識として「幸せ=お金を遣って何かを得た時に幸せが生まれる」ということに無意識のうちに定義させられているのではないでしょうか。

でも、もし「幸せ=お金を遣って何かを得た時に幸せが生まれる」という前提で環境が作られていることに国民が満足しているのであれば、私たちの幸福度はもっと高いはずです。そうではないからこそ、私たちの幸福度は一向に上がらない。

もしこれが50年前の話だったら、日本人の幸福度はきっともっと高かったでしょう。モノがなかった時代、お金を遣ってモノを得ることは幸せにつながることだったからです。問題なのは、もう私たちは十分すぎるほどモノを持っているのにも関わらず、この前提がいつまでたってもアップデートされず、古い前提のまま環境が突っ走っていることなのではないでしょうか。

 

デンマークのループ・日本のループ

ここでデンマークと日本の幸せの前提と、そこから派生することを考えてみました。ちょっと極端かもしれませんが、デンマークと日本でこんなまったく別のループが起こっているように感じました。

デンマーク:幸せ=家族や友人と一緒に過ごす時間。何でも欲しいものがすぐに手に入る環境にない。収入も半分が税金になるので、個人で自由に使えるお金はある程度限られている。結果、利用する側は何でもお金で買って何かを楽しむのではなく、自分たちで楽しみを作り出すことが当たり前になる。それを家族や友人と一緒に作って楽しむことで満たされる。プライベートの時間に充実を感じるから、さらに家族や友人といる時間を大切にする。

日本:幸せ=お金を遣って得るもの。だから売上を上げるためにお店はどこも遅くまで営業するし、働く側は労働時間が増える。利用する側はお金さえあれば欲しいものがいつでも簡単に手に入る。だからお金が欲しい。そしてお金がないと楽しめなくなる。だからお金を得るためにまた働く。

もちろんお金を遣わないと楽しめないこともたくさんあるし、どちらをよしと思うかは個人の価値観によると思います。ただ日本では当たり前のようにこのループが渦巻いていることで、幸せを感じるためのハードルはどんどん上がり、それと反比例して「当たり前のことを幸せに思える力」はどんどん衰えているように感じます。

ちょうどセブンイレブンの24時間営業の是非が問題になっていますが、これはまさに「幸せ」=「お金を遣って得るもの」という前提で推し進めてきたことに限界がきている象徴的な問題なのではないでしょうか。

東日本大震災や数々の天災を経て、日本人の価値観は大きな転換期の中にいると感じている人も少なくないと思います。だからこそ、デンマーク始めとした北欧諸国に注目が集まっているのでしょう。だからと言って「幸福な国の真似をする」のではなく、まずは個人個人が「自分の幸せの前提は何なのか?」ということを、立ち止まって考えてみること。そしてもっともっと言葉に出していくこと。そうして少しづつでも「新しい幸せの前提」を定義していって、自分たちの手でそれに合った環境を作っていくことが大切なのではないでしょうか。

We may be living a very unbalanced society

Denmark people who talk about society in everyday life

Every evening after dinner at højskole has events. Watching movies, exercising, party, and so on.

The other day there was a meeting to discuss gender issues.
It was a woman who made a plan, only a person who wanted to participate was an event, but several men and the principal's teacher participated. On one table we exchanged opinions on gender issues each thinking.
Drinking wine and beer, sipping relaxing music and lighting the candle.

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Although there are also events set beforehand like that, there are nature talks about society as well as personal stories such as "How was your weekend?" Or "How was your course today?" While eating at school I will also.
Even if such a topic is taken, it will not switch to a serious atmosphere. Just communicate the opinions of each other naturally on the extension line of daily conversation.

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When I lived in Japan, I remembered what I always talking with my friends. Talk of work and small events of daily life. What is different from Denmark is that there are only personal topics, there were no topics of the whole (society). As in Denmark, there was rarely a topic that something has become a problem in society while eating.

 

Denmark had abandoned the nuclear power plant before the Chernobyl accident

Although the talk changes a bit, Denmark is making a decision to abandon nuclear power in 1985, more than 30 years ago from now.

In the past, 90% of energy were dependent on imported crude oil, but it seems that the introduction of nuclear power generation was planned once with the oil shock as a trigger. However, there was a grace period during which people could learn about nuclear power plants before nuclear power plant construction. As a result, "If nuclear accidents happen in such a small country, it will be serious," decided to abolish nuclear power plants. It is like a role model of democracy.

(cited from http://www.daichi-m.co.jp/csr/6288/

And the Chernobyl nuclear accident happened in 1986 the following year. Before the accident happens, the people learn about nuclear power, think with their own heads and draw a conclusion that "nuclear power plants are not needed in this country". And it was realized.

The population of Denmark is about the same as the population of Hyogo prefecture, the area is about the same as that of Kyushu. Because it is such a compact country, I think that there is a consciousness to grasp social problems as individuals, and I think people's argument is easy to realize.

But the big decision like abandoning nuclear plants was able to be realized because they have an interest in what is going on in society now and have opportunities to talk with people around them on a daily basis. I was at højskole and I felt that.

 

The unbalanced distance increases the distance between "society" and "personal"

Danish people talking to nature from personal topics to social topics while eating. The content to talk with friends is mostly personal topics and Japanese people who don't have the opportunity to talk about social topics on a daily basis.

It does not mean which is good or bad. However, when we look at these two objectively, we are living in a society living in an unbalanced society biased towards very "personal" even though we are "personal" in "society".

What kind of policies is currently being implemented by Prime Minister Abe? What kind of environmental problems are involved in the summer that was abnormally hot last year? Why is the news of child abuse increasing more and more? Why are children waiting for nursery schools not decreasing? Why was the number of successful candidates reduced because the woman was "a woman" in the medical college entrance examination?

For us who do not talk about "society" in everyday life, the topics of problems and politics occurring in such society be go flowing to the news which flows from one to the next. And it will not touch forever until it is directly affected as "personal".

And the distance between "society" and "personal" keeps getting far away and it becomes steadily "other people's affairs". I thought if the result clearly appears in the difference between the present conditions of Denmark and Japan nuclear power plants.

 

Let's make a daily scene to talk about society while drinking coffee

While drinking coffee with friends, "How is your recent work?" "I found a delicious shop other days", in which "Do you think about the news that is a problem recently?"Such a conversation is also in Japan naturally I want to be exchanged with.
What do you think about what you think about it? There is no need for a correct answer. First of all, thing to talk about. And try to think about it even just a little.
As it becomes a habit, which will become a culture. Let's make an atmosphere to talk about to friends naturally with what is happening in society.

Such small acts will be the key to creating a society in which we want to live and it will be very important things for us who will make a future society.

私たちはものすごくバランスの悪い社会を生きてるんじゃないかと思った話

日常の中でさらりと社会の話をするデンマーク人

全寮制のフォルケホイスコーレでは夕食後も毎晩何かしらイベントがある。みんなで映画を見たり、エクササイズをしたり、パーティーがあったり。

この間はジェンダーの問題について話し合う会があった。
企画したのは女の子で、参加したい人だけ参加してねっていう会だったけど普段ヤンチャそうな男の子も、校長先生も参加した。みんながひとつのテーブルで、1人1人が考えるジェンダーの問題について意見を交わし合う。
ワイン片手に。ビール片手に。ゆったりした音楽を流しながら。ろうそくを灯しながら。

 こういうかしこまった会もあるけど、フォルケホイスコーレで生活をしていると、食事をしながら「週末は何してたの?」とか「授業はどう?」とかそんな他愛もない話以外にも、自然と社会についての話題も出てくる。気候変動に対するデモに行った話、オーガニックフードの価格の話、ジェンダーについての話....
そういう話題になったら真面目な雰囲気に切り替わるわけでもなく、何気ない日々の会話の延長線上に、自然に、そして穏やかにお互いの意見をただ伝え合う。 

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ふと日本で生活していた時、友達と普段何を話してたかなと思い返してみる。仕事の話、プライベートの話、日々の他愛もない話。デンマークと違うのは、そこには個人の話ばかりで全体(社会)の話がなかったことに気付く。デンマークのように、食事をしながら社会で問題になっていることが話題に出てくることってあったかな、って考えると(私の場合は)ほとんどなかった。

 

チェルノブイリ事故前から原発を放棄していたデンマーク

少し話が変わるけど、デンマークは今から30年以上前の1985年に原発を放棄する決断をしている。

かつてはエネルギーの90%を輸入原油に頼っていて、オイルショックを機に、一度は原子力発電導入の計画も持ち上がったそうです。しかし、原発建設の前に国民が原発について学ぶことのできる猶予期間があり、結果的に、「こんな小さな国で事故が起こったら大変」と原発廃止の判断がなされたとのこと。民主主義のお手本みたいですね。(http://www.daichi-m.co.jp/csr/6288/ より引用)

ちなみにチェルノブイリ原発事故が起こったのは翌年の1986年。事故が起こる前に国民が原発について学び、自分たちの頭で考えて「この国に原発はいらない」という結論を出す。そしてそれがちゃんと実現する。

デンマークの人口は兵庫県の人口と同じくらい、面積は九州と同じくらい。そのくらいコンパクトな国だからこそ、社会問題も自分ごととして捉える意識があるんだろうし、国民の主張も実現しやすいんだと思う。
でも原発放棄のような大きな決断が実現できたのは、フォルケホイスコーレでも見られるように、普段から社会で起こってることに対して関心を持って、かつ日常的に周りの人と話す機会がある、という土台があってこそだと感じた。

 

バランスの悪さが「社会」と「個人」の距離を遠くする

食事をしながら他愛のない話から社会の話まで自然と話すデンマーク人と、友達と話す内容は個人的な話がほとんどで、社会の話題について話す機会が日常的にない日本人。

どちらがいいとか悪いの話ではない。ただこの2つを客観的に見て、私たちは「社会」の中で生きている「個人」なのに、ものすごく「個人」に偏ったバランスの悪い社会を生きているんじゃないか?

そして日常の中で「社会」の話をしない私たちにとって、安倍首相が今どんな政策を打ち出しているのか?去年の異常に暑かった夏は一体どんな環境問題が絡んでいるのか?耳を覆いたくなるような児童虐待のニュースはなぜ減らないのか?医大入試でなぜ女性が「女性だから」という理由で合格者数を減らされていたのか?

そういった社会で起きている問題や政治の話は次から次へと流れてくるニュースに流されていき、「個人」として直接影響を受けることが起こるまで永遠に触れ合わない。

そして「社会」と「個人」の距離はどんどん離れていき、どんどん「他人事」になっていく。その結果が、デンマークと日本の原発の現状の差にはっきりと現れているんじゃないだろうか。

 

コーヒーを飲みながら社会の話をすることをカルチャーに

日本でも友達とコーヒーを飲みながら、「昨日仕事でこんなことがあってさ」「この間美味しいお店見つけてさ」、その中に「今問題になってるあのニュース、どう思う?」そんな会話が自然と交わされること。
それについて自分がどう思うか、あなたはどう思うか。正解はなくていい。まずは話してみること。少しだけもいい、考えてみること。
それが習慣になって、いずれはカルチャーになっていくこと。社会で起こっていることを、かしこまらず、自然と友達同士で話せるムードを作っていくこと。

そんな小さな行為が、自分たちが生きたい、生きやすい社会を作っていく鍵になるだろうし、これからの社会を作っていく私たちにとって、とても大切なことなんじゃないだろうか。

 

(余談だけどこの記事を書きながら、POPEYEみたいな若者に影響力のあるメディアが社会の話をすることもカルチャーとして捉えて、ファッション、音楽、映画、働き方なんかと並んで提案してくれないかなあ、と思ったり。世の中のムードを作るには、そういうアプローチが一番早いと思うんだけどな。どうでしょうか。)